義認 → 聖化 → 栄化(その⑤)
「何故、創造主(神)は人間を罪を犯すことのない『聖』なる者として創造しなかったのか?」
「聖」なる者として創造していれば、いけにえの血やキリストの血も必要なかった筈だし、「義認」「聖化」「栄化」などの過程を経る必要もないのです。
聖書を学び始めた頃はもちろんですが、聖書の学びがかなり進んだキリスト者であっても、上記の疑問が解決出来ないでいる人が少なからずいるのではないでしょうか。
私もアレコレと無い知恵を絞りながら考えてみたのですが、当然ですが創造主(神)の御心がそう簡単にわかるはずもありません。
ところが、ある時、ふと気付きました。聖書を丸ごと信じているように「創造主(神)のなさることに間違いはないのだから丸ごと徹底的に信頼しよう。」ということを。
人間がキリストのようになるためには、いけにえの血が必要であり、キリストの血も必要であり、義認から聖化を経て栄化によって完成することが必要である、と創造主(神)が定めたことを「ハイ、わかりました」と受け入れるだけなのです。
私たち人間は、土のチリから造られた土の器に過ぎません(創世記2:7)。
土の器に過ぎない人間が、陶器師である創造主(神)の御心にケチをつけて「これじゃダメだ。このようにしてくれ。」と命じてよいものでしょうか。
次の三つの聖書箇所をご覧ください。
イザヤ書64:8
エレミヤ書18:1~6
ローマ人への手紙9:20~21
陶器師(創造主)が定めたことに「何故」という疑問を持つ資格など土の器(人間)にはないのです。
創造主(神)が、いけにえの血、キリストの血、義認、聖化、栄化の過程が必要であるとお定めになったことを土の器に過ぎない人間はただ信頼して受け入れるだけなのです。
アンドリュー・マーレー(1828年~1917年)は次のように著書に書いており、「何故、創造主(神)は人間を罪を犯すことのない『聖』なる者として創造しなかったのか?」の疑問に対する答えとなるヒントを与えてくれているようです。長い文章ですが、最後までお読みいただければ幸いです。
「『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう(創世記1:26)。』人間についての聖書の幕を開く、この創造に関する神の協議のことばの中に、私たちは、人の存在の永遠の目的と、人に定められている栄光ある永遠の未来についての啓示を見いだします。ご自分のかたちと似姿となり、見えない神の栄光の目に見える現われとなる、神のような被造物を造ろうと、神は提案しておられるのです。創造されたものであるが神のような存在を造ったということは、まことに、無限の知恵にふさわしいわざでありました。神がほかのすべてのものに対して絶対的に独立していて、ご自分のうちにいのちを持ち、ご自分以外の何ものにも依存しないということは、神の性質であり、また神の栄光であります。もし人が神のようになろうと思うなら、彼(人)はみずからの選択の自由を用いて、彼のあるべき状態に達するという点で、神のかたちに似せられるべきであります。すなわち彼は、自分自身をみずから造りあげていく義務があるのです。一方、ほむべき創造主に依存し、いっさいを負うということは、被造物の性質であり、栄光であります。ところで、依存してはいるが、自分で決定する権限を持ち、造られた存在ではあるが、神のようになるというこの矛盾は、どのようにして解決されるのでしょうか。この奥義は、人において解決されます。神は被造物として人にいのちを与えられますが、同時に、自由意志という驚くべき力をも授けられるのです。神に似せられるといった非常に高度できよい現象が真に人のものとなるのは、彼の個人的で自発的な営みの過程においてのみ、可能であります。罪が介入して、人が高い目標から脱落したときにも、神はご自分の目的を放棄されませんでした。神の、イスラエルの民に対する啓示のうちで中心となる思想は、『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない(レビ記11:44~45)。』でありました。神に似せられるということは、神のわざの最高の仕上げでありますが、それがイスラエルの望みとなるべきであったのです。あがないは、創造が現わした以上の理念を持っていませんでした。それはただ、永遠の目的を取り上げ、成就するだけであったのです。このことを考慮に入れて、御父は、ご自分のかたちそのものである御子(キリスト)を、地上に遣わされました。彼(キリスト)にあって私たちが創造されたそもそもの目標であり、私たちが個人的に自分のものしなければならない特権である神の似姿は、人の姿のうちに現されたのです。彼は私たちに、神のかたちと同時に私たち自身のかたちをも示すため、地上に来られました。彼を仰ぐことによって、私たちが長い間失っていた神の似姿への願望が目ざめます。また、そのかたちに変貌させられるために自分自身をゆだねる勇気のもととなる、望みと信仰が、誕生すべきであるのです。このことを成就するために、彼のなすべき二重の働きがありました。その一つは、私たちが、その似姿にかたどられた生涯とはどのようなものであるか、私たちのあがない主としての神からそれを期待し、受け取るとはどのようなものであるかを知るために、彼の生涯において、神の似姿を現わすということでありました。彼はこのことをなしとげ、人の姿において神のいのちの似姿を私たちに示したのち、神の似姿のいのちであるご自分のいのちを私たちに分け与えるため、死なれました。それは私たちが、彼のいのちの力によって、私たちが彼のうちに見たとおりの似姿をもって生きるためでありました。彼が天に昇られたのは、聖霊によって私たちに、彼がまず私たちの前に置き、続いて私たちに与えるために獲得された、そのいのちの力を注ぐためであったのです。主のこの二つの働きの間にどのような関係があり、しかもそれらが互いに依存しているということは、容易に知ることができます。彼は、私たちのあがない主として死ぬことにより、私たちの模範としてご自分の生涯で現わされたものを実現する力を、私たちのために備えられました。彼の地上のいのちは、私たちの歩むべき道を示し、彼の天上のいのちは、その道を歩むための力を提供しています。神が合わせられたものを、だれも引き離すことはできません。あがないへの十分な信仰に立たない人は、模範に従う力を自分のものとすることができません。また、あがないの一大目標である、神のかたちに似せられることを求めない人は、その力の中に十分にはいっていくことができません。キリストは、ご自分の生涯において神のかたちを示すため、地上で生きられました。彼はまた、私たちが自分自身の生涯において神のかたちを現わすため、天上に生きておられるのです。」
皆さんが聖書研究の過程で様々な疑問を持つこともあるでしょうが、その疑問と良い意味で格闘して聖霊に導かれて「真理」に到達できることを心より願います。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
義認 → 聖化 → 栄化(その④)
(その③)の続き。
このブログを書きながら、今更ながら感じていることがあります。
それは聖書研究が聖書の中にちりばめられた創造主(神)から出て来る「真理のことば」というお宝を発見するようなもので、トレジャーハンターが長年探し求めていたお宝を発見した心持ち以上の歓びを私にもたらしてくれているということです。
この歓びの中で最大のものは創造主(神)を発見出来たことであり、主イエス・キリストを信じることにより「神の子」とされたということです。
「説教者の中の説教者」と言われたイギリスのC・H・スポルジョン(1834年~1892年)は、貧しさや病に苦しむ信徒に対して次のように説教しています。
「何も持っていなくても、神の子であるあなたには、大いに誇ることのできる、永遠の富としての神が与えられているではありませんか。この主なる神を信ずることによって、あなたはあらゆるものを持っているのです。すべてのものは、神から来ているからです。たとえ、すべてのものが失われても、主は再びそれらを与えてくださいます。主が語られると、そのとおりになるからです。主からの命令がなければ、何ものも動くことはありません。」
聖書を学び始める前までと学び始めて間のない頃で創造主(神)の真の御力とその溢れる恵みを知らない頃の私がこのスポルジョンの説教を聞いたなら、「そんなものかなあ~」と思う程度で風が過ぎ去るように何一つ心に響くものを感じることはなかったでしょう。
しかし、聖書研究が進むに従い創造主(神)の臨在を感じるようになり、私たちにいのちを授け、私たちのいのちを維持している創造主(神)の全能の御力を理解することができてからは、このスポルジョンの説教の一つ一つのことばが真実であることがわかります。
このスポルジョンの説教と前々回のブログで引用した「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」(ローマ8:17)という聖句によって、「神の子」が父なる神の相続人として父なる神が備えてくださっているお宝(恵み・賜物)を必ずや受け継ぐことになるという確信が私の心の中に刻まれるのです。
さて、本日のテーマに入りますが、次の三つの聖書箇所をご覧ください。
ヨハネの手紙第一2:6
創世記1:26
ローマ人への手紙8:28~30
<注>30節末尾は「栄光をお与えになりました」と過去形になっているのは創造主(神)の視点から言っているのであり、人間の立場からすればキリストを信じる者の将来に起こることである。
創造主(神)が望まれていることは、神(三位一体の第二位格の神であるキリスト)に似せて造った人間の外面だけでなく、内面をもキリストのように「聖」になることなのです。
そして、キリストのようになる成長の過程が「聖化」であり、「栄化」とは、創造主(神)が神に似せて人間を創造した本来の姿(内面、外面ともに)に立ち返ることであると言えます。
しかし、前回ブログでも書きましたが、人間の努力や業(わざ)で「聖化」及び「栄化」を成し遂げることは不可能です。
「聖化」及び「栄化」ともに聖霊と創造主(神)の御業(恵み・賜物)によるのです。
次の二つの聖書箇所をご覧ください。
コリント人への手紙第一15:47~58
<注>47節の「第一の人」とはアダムであり、「第二の人」はキリストを指す。
ピリピ人への手紙3:20~21
「栄化」とは、肉体の復活とともに霊的・内面的にキリストと同じ姿の栄光のからだが授けられることなのです。
蝶が幼虫のイモムシからサナギになり成虫の蝶に成長していくのは、蝶自身の努力によるのではなく創造主(神)の恵みであるように、罪人の人間がキリストと同じ姿に変えられていく「聖化」及び「栄化」は、人間の努力(業)によるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰による創造主(神)の恵みによるのです。
主イエス・キリストを信じる者は、創造主(神)が定めたその時が来れば、蝶がサナギから成虫に変身(変態)するように、一瞬のうちにキリストと同じ姿に変えられていくのです。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
義認 → 聖化 → 栄化(その③)
(その②)の続き。
私の住む福岡市内にある福岡六本松キリスト福音教会の折田泰彦牧師(1942年~)は、九州大学医学部を卒業後内科医として現在も医療に携わりながら牧師をされていますが、折田牧師の著書「天声塵語」の中で上記の聖句に関して次のように述べている箇所があったので、一部引用したいと思います。
「(楊貴妃を寵愛した)玄宗皇帝ならずとも、いつの時代にも人間は永遠に続くいのちを求めています。永遠のいのちとはどのようなものでしょうか。それは、キリストと神様に知り合いになり、さらにもっと親しく付き合い、この方々のすばらしさを知ることだというのです。キリストを信じた時から永遠のいのちはもうすでにこの地上で始まっています。ですから、永遠のいのちは、この地上での神の国の一員としてのいのちとこの地上の生涯の彼方にある神の御国での永遠に続くいのちとに分けることができます。人がまことの神とその御子キリストを知り、信じ、受け入れると、肉体の生命の上に新しい霊のいのちを与えられ、この地上の肉体の生命を持ちながら、霊のいのちを生きていくのです。」
日々、医師として真摯に「いのち」と向き合っている中で聖書で示されている「永遠のいのち」を信じている折田牧師のことばには説得力があります。
聖書を読んだことがなく、イエスが実在した人物であったのかなかったのかも吟味したことのない人からすれば、私を含め「永遠のいのち」を信じているキリスト者は「頭がオカシイ人たち」ということになるのでしょう。ということは、この医師でもある折田牧師も「頭がオカシイ人」ということになりますね。
しかし、決してそうではありません。
聖書を真剣に学べば「永遠のいのち」が空想や妄想ではなく、創造主(神)から授けられる恵みであることが理性的に理解できるはずです。
一日でも早く、一人でも多くの人たちが聖書を学ばれることを心より願います。
過去の当ブログで私も書きましたが、折田牧師も書いているように「キリストを信じた時から永遠のいのちはもうすでにこの地上で始まっています。」
さて、前回の続きに入ります。
「義認」の恵みは、キリストを信じる者に対する創造主(神)からの一方的な祝福です。
陸上選手が100メートルを10秒切って走るから、オリンピックで金メダルを取ったからとか、ノーベル賞を受賞するほどの能力があるからといった人間側に特別の能力があるから「義」と認められ「神の子」されるわけではありません。
何故なら、本人の努力自体は賞賛に値するものであるが、それらの能力も元は創造主(神)の創造の賜物であって、人間側には何の誇るところもないのです。
「義認」は主イエス・キリストを信じる信仰による恵みなのです。
「義認」の教理に続いて「聖化」について検討しますが、次の聖句をご覧ください。
ペテロの手紙第一1:15~16
<注>16節はレビ記からの引用です。
レビ記11:44~45
これらの聖句に記されているように完璧に「聖」である創造主(神)は主イエス・キリストを信じる者にも「聖」であるよう求めておられます。
しかし、主イエス・キリストの血の贖いによりキリストを信じる者が表面的には「義」と宣言されても、以前として人間に内在するアダムから引き継いでいる堕落した本能、罪を犯す旧い性質(これをパウロは「肉」の性質と表現する)が取り除かれたわけではありません。
パウロも己の中にある旧い性質、肉の性質について次のように記しています。
ローマ人への手紙7:18~21
人間のこの罪を犯す旧い性質を取り除く方法はあるのでしょうか。
次の聖書箇所をご覧ください。
コリント人への手紙第一6:9~11
私たち人間の努力や業(わざ)だけで罪を犯す旧い性質から解放されることは不可能です。
この聖句にあるように「御霊(聖霊)」に助けていただけなければ罪を犯す旧い性質を洗い流すことはできないのです。
ローマ人への手紙8:26~27をご覧ください。
ここで、J・I・パッカーの著書から引用します。
「『聖化』とは罪が完全根絶されることでも、罪が単に妨害されることでもなく、私たちを罪の習慣から解放し私たちのうちにキリストのような思いや気質や徳を形成するような、神によってもたらされた全人格の変化である。」
結局、聖化とは、キリストを信じた者が「聖」であるキリストのようになるために御霊(聖霊)の助けを受けながら成長(変化)する過程であるということができます。
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義認 → 聖化 → 栄化(その②)
(その①)の続き。
前回の「義認」の続きに入りますが、J・I・パッカーは「義認」について次のように説明しています。
「義認とは、罪人(邪悪で不敬虔な者)を赦す神の法的な行為であり、彼らを義と認められた者として受け入れ、以前は神から離れていた彼らと神ご自身との関係を永遠に正しいものとする。この義と認める宣告は神が与える義の恵み(賜物)であり、キリストのゆえに神が私たちを受け入れてくださっているという立場を与えるものである。・・・中略・・・義と認められるために必要な手段は、イエス・キリストが十字架につけられた救い主であり復活した主であると信じる個人的な信仰である。」
少し難しい説明だったかもしれませんが、つまり「義認」とは創造主(神)の恵みによって主イエス・キリストを信じた者を「義(人)である」と認めてくださることです。
しかし、ここで注意すべきことは「義認」によって私たち人間の本質が「義」となるわけではなく、あくまでも、創造主(神)の恵みによって「義である」と看做してもらえるということなのです。
創造主(神)が主イエス・キリストを信じた者を「義である」と宣言してくださっても、アダムから引き継いでいる堕落した本能、罪を犯す旧い性質(これをパウロは「肉」の性質と表現する)を持っている人間であることに変わりがなく、主イエス・キリストの「義」が、信じた者の上に「転嫁(てんか)」(別の言い方をすれば義が移る)されるということなのです。
パウロが「肉」の性質について語っている聖書箇所を一つ引用します。
ガラテヤ人への手紙5:16~21
<注>「御霊」とは「聖霊」のことです。
前回のブログで「義人はいない、ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)という聖書箇所を引用したように「義人はいない」のです。
しかし、主イエス・キリストを信じる信仰によって、創造主(神)の恵みによって「義」とされるのです。
ですから、いくら人間が多くの徳を積んだり、座禅をしたり、滝に打たれる修行をしたり、護摩業をしたり、千日回峰行を死ぬ思いでしても、「義人」となることは不可能なのです。とにかく「義人はいない」のです。
人間の努力、業(わざ)で「義」に到達することは不可能です。
何故なら、創造主(神)が人間を創造する際に、罪を犯さない義人を創造すれば済むことなのに、それをしないでいるところに奥義(神が人間に秘密にしていること)があり、創造主(神)が求めているのは人間の虚しい努力や業(わざ)ではなく、創造主(神)を信じること、つまり、主イエス・キリストを信じること、この一点を求めているのです。と私は理解しています。
全ては創造主(神)の恵みです。
命を授けてくださったことが第一の恵みであり、主イエス・キリストを信じる信仰により「義」とされることも恵みです。
次の三つの聖書箇所をご覧ください。
ガラテヤ人への手紙3:26
ローマ人への手紙8:17
「義認」の恵みは、主イエス・キリストを信じる信仰により創造主(神)の子としての立場をもたらすものです。
これは、創造主(神)がキリストを信じる者の天の父であるという永遠に続く親密な関係を持つことなのです。
そして、創造主(神)の恵みによってキリストを信じる者をご自分の子にするということは、何のとりえもない者が「神の相続人であり、キリストとの共同相続人」になるという祝福をもたらすことになるのです。
相続とは受け継ぐということであり、父なる神のものをキリストと一緒(共同)に相続(受け継ぐ)するという、これ以上大きな祝福はないというほどの祝福を受けることになるのです。
父なる神はキリストを信じる者である自分(神)の子たちに様々な財産(恵み・賜物)を与える準備をしており、一人でも多くの人間がキリストを信じる者となることを望んでいて、その時(キリストの再臨)が来るまで忍耐しておられるのです。
ここで再度J・I・パッカーの著書から引用します。
「義認は土台となる祝福であり、神の子とされることは義認に基づいている。神の子とされることは最高の祝福であり、義認はそのための道を開く。神の子としての身分は、キリストを受け入れるすべての者に与えられる。キリストを信じる者が子としての身分を持つということは、キリストにあって、そしてキリストによって、神がご自身のひとり子を愛するように彼らを愛し、そして今はキリストのものであるすべての栄光を彼らに分け与えるということを意味する。」
テレビ番組で、その言動からキリスト教徒とは思えないアナウンサーが、同じくその言動からキリスト教徒とは思えないある特別の才能を持つ人を「神の子」と呼ぶことがありますが、聖書に基づく「義認」の恵みを理解すればキリストを信じていない者を「神の子」と呼ぶことは相応しくないことがわかります。
「義認」についてもっともっと書きたいことがありますが、当ブログでは出来るだけ簡潔に聖書のエッセンスを書くことに努めているので、「義認」の説明はここまでにして、次回は「聖化」について検討したいと思います。
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義認 → 聖化 → 栄化(その①)
タイトルの「義認→聖化→栄化」のうち、まず、「義認」ついて考えたいと思いますが、その前に、皆さんに次の質問をします。
創造主(神)は、どんな御方でしょうか。
次の3つの中からお選びください。
(1)創造主(神)の全人格のうち10%が聖い
(2)創造主(神)の全人格のうち50%が聖い
(3)創造主(神)の全人格の全て100%聖い
愚問でしたが、未だ創造主(神)を知らない、または信じていない人でも「神」をイメージするとすれば、神の全人格が100%聖い御方であることを望むでしょう。
そうなのです。聖書が教える「神」である創造主は、完璧に聖い御方なのです。
続いて、次の仮定を想像してください。
日本の総理大臣Aがいます。ある日、国会議員でもなく総理大臣の知人でもない一般人のBがA総理大臣に面会を求めて来ました。
A総理大臣はすぐに面会するでしょうか。聞くまでもないことですね。
仮に、面会が可能だとしても様々なハードルをクリアし様々な手続きを経た後でなければならないでしょう。
また、別の一般人のCが「俺はAを総理大臣とは認めない。ただ、俺と面会してくれるんだったら総理大臣と認めてやる。」と言います。
当然A総理大臣はCの要求を一笑し無視するでしょう。
このように人間社会であっても、一般人が総理大臣にコンタクトすることは容易ではありません。
よく無神論者が「神が俺の目の前に現れてくれたら信じる。」と言ったりしますが、言いたい気持ちはわかりますが、実は傲慢な要求なのではないでしょうか。
つまり「俺の目の前に現われたら信じてやってもいい。」と言ってるも同然なのです。
つまり、私が言いたいことは、人間社会でも総理大臣に容易にコンタクトすることができないのに、万物の中の一被造物にすぎない人間が、天地万物を創造した偉大な御方であり完璧に「聖」である創造主(神)に気軽にコンタクトできるわけでもないし、人間の要求に応じて現れる必要もないのです。
ここで、次の聖書箇所をご覧ください。
ローマ人への手紙3:9~12
10節以降はパウロが旧約聖書の詩篇14:1~3を引用して語ったものですが、人間は例外なく一人残らず罪人であると言っているのです。
詩篇14:1~3
万物の中の一被造物に過ぎず、かつ、罪人の人間が、完璧に「聖」である創造主(神)に気軽にコンタクトなど出来るはずはないのです。
しかし、創造主(神)は「いけにえの血」と祭司制度を設けることによって、人間とのコンタクトの道を備えてくださったのです。
つまり、祭司の中でも大祭司が動物の「いけにえの血」によって人間の罪の贖いをして初めて神殿(神殿が造られる前は幕屋)の至聖所に入ることが許され、創造主(神)とコンタクトできたのです。
<注>「至聖所」はエルサレムの神殿の最奥部に位置する最も神聖な区域。
このように創造主(神)とコンタクトできる道が開かれることになっても一人一人の人間がコンタクトできるわけでなく、大祭司だけだということが、主イエス・キリストがこの世に現れる前の旧約時代(旧約聖書の時代)の在り様だったのです。
新約時代(新約聖書の時代)に入り、主イエス・キリストが十字架にかけられて血が流され人間の罪が贖われることによって、大祭司だけでなく、主イエス・キリストを信じる信仰によって一人一人の人間も創造主(神)にコンタクトすることができる道が開かれることになったのです。これを「万人祭司(ばんにんさいし)」と言います。
何故、一人一人の人間が創造主(神)とコンタクト出来るようになったのか、それは主イエス・キリストの血の贖いによって罪人の人間が「義」と看做される(認められる)ことになったからです。
次の聖書箇所をご覧ください。
ローマ人への手紙3:23~26
<注>25節の「なだめの供え物」とは、神の怒りをなだめるための「いけにえ」のことです。
26節後半に「イエスを信じる者を義とお認めになる・・・」とありますが、イエスを「信じる」とは、イエスの何を信じるというのでしょうか。
このことについてパウロは次のように語っています。
コリント人への手紙第一15:3~5
<注>5節の「ケパ」とは、イエスの弟子のペテロのこと。
「私たちの罪のために死なれたこと、墓に葬られたこと、三日目に復活したこと」を信じることがイエスを信じるということなのです。
このイエスを信じる信仰によって罪人の人間である私たちではありますが、義と認められることになるのです。
これが「義認」なのです。
今回はここまでですが、義認について引き続き次回も述べたいと思います。
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〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
いけにえの血と贖い(その③)
(その②)の続き。
前回のブログで引用した聖句でも確認したように、創造主(神)ご自身が、牛や羊などの動物を欲しているのではなく、必要としているのでもありません。何故なら、いつでも創造主(神)は牛や羊を創造できるのであって、わざわざ、ほふられた(殺された)動物など必要としないのは当然なのです。
人間を愛してくださっている創造主(神)は、罪を犯した人間を直ちに罰するのではなく、人間の身代わりとして牛や羊の動物の「いけにえの血」をささげるという儀式を設けることによって、人間がいつまでも罪責感を持たないでいいように、のがれの道を用意してくださったのです。
ところで、聖書を本格的に読み始めた頃、読み進むうちに聖書が驚きの書であることを少しずつ実感することになりました。
この驚きの中には二つの驚きがありました。その一つは私が求めていた「真理」を書いている書という意味の驚きであり、もう一つは単純にこんなことがあるのかという驚きでした。
過去ブログでも紹介したのですが、内村鑑三はこのヨハネの福音書1:1を「世界最大のことば」と語っています。再度引用します。
「世界最大のことばは新約聖書ヨハネ伝第一章の第一節においてある。このことばより大なることばは論語にも、孟子にも、古事記にも法華経にも、プラトンにも、アリストテレスにも、ダンテにもシェイクスピアにも、ゲーテにもない。これ実に世界、いな、宇宙最大のことばであって、このことばこそ実に世に戴せ尽くすことあたわざるものである。」
私は主イエス・キリストが「ことば」であり天地万物を創造した御方であると記されていることに単純に驚きました。
そして、創造主(神)である主イエス・キリストが天から地に降りて、創造した被造物の人間と同じ体になって、自ら人間の罪の贖いのために十字架上で血を流されたことを知ることになった時は最大の驚きでした。
次の聖書箇所をご覧ください。
ピリピ人への手紙2:6~9
ヘブル人への手紙12:2
エペソ人への手紙1:7
ロイ・ヘッション著の「カルバリの道」という本を既に購入しているのですが、読みたい本が多くて後回しになっています。近いうちに読みたいと思っています。
なお、聖書の中身を全く知らなかった頃は、マンガの「ゴルゴ13」の「ゴルゴ」がイエスが十字架につけられたゴルゴタの丘からヒントを得た名称であることを知っていた程度でした。
次にコロサイ人への手紙1:14~20をご覧ください。
そもそも、創造主(神)でもある主イエス・キリストは、自ら創造した人間の罪の贖いのために、創造主(神)のあり方を捨てて被造物の人間として地上に来られて辱めを受けて十字架につけられるなどとするストーリーを人間の知恵で考えつくことでしょうか。
要するに、聖書が人間によって創作された作り話などと、私には到底考えることは出来ないのです。
聖書が真実の書であると確信します。
↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
いけにえの血と贖い(その②)
(その①)の続き。
まず、マタイの福音書9:13に記されているイエスのことばをご覧ください。
冒頭の「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」は旧約聖書・ホセア書6:6の引用です。
ホセア書6:6
続いてイザヤ書1:11をご覧ください。
このように、創造主(神)は、いけにえの動物の血が欲しいわけでも何でもないのです。
いけにえの動物の血は、あくまでも人間の罪を贖うためのものであり、人間のために創造主(神)が備えてくださった儀式なのです。
ただ、いけにえの動物の血は一時的に人間の罪を贖うことしか出来ませんでした。ですから何度も繰り返し動物をほふり(殺して)血を注ぐ必要があったのです。
これに対して十字架上で流されたキリストの血は、ただ一度だけで人間の罪を贖うことが出来たのです。
ヘブル人への手紙9:22~28をご覧ください。
最後の28節後半の「二度目は・・・」の二度目とは、私たち人間を救うために主イエス・キリストが再度現れてくれることですが、これは「携挙(けいきょ)」のことを言っているのです。
↓ ↓ (その③・最終回)はこちらをクリック
「携挙」については、本年1月5日のブログ「復活と永遠のいのち(その5)」で書いているので、未読の方はこちらをご覧ください。
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・天地万物の創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリストを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★(HN)星周作:(本名)馬場忠博(1956年生):馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。