神の残した痕跡・奇蹟の塊
昨日、ブログをアップして、すぐ外出したのですが、1時間ほどして思い出したことが昨日のテーマとかぶるので、本日取り上げることにしました。
まず、新約聖書・ルカによる福音書9:10~17をご覧ください。
5個のパンと2匹の魚を男の数だけで5000人に与えた有名なエピソードです。
続いて、クリスチャン作家の曽野綾子の著書「現代に生きる聖書」を引用します。
「たった五つのパンと二匹の魚を、みんなで分けるというと、一人あたりの量はどんな少しだったでしょう。五千人に五つのパンなど、分けることはむしろ不可能です。つまり、リアリズムで言えば、象徴的に分けたにすぎない。ところが、みんなが食べたあとに残ったパン屑と魚が十二の籠にいっぱいになるほどにあった、と言うのです。これについて、大変おもしろい説を立てていらっしゃる神父様がおられます。これは奇跡というよりもきわめてリアリスティックな説明ですが、実は彼らみんな食料を持っていた、と言うのです。これはあり得る話です。村もない、レストランも、物を売っている店もない田舎ですから、だいたいの人が少し遠い所へ行くときは食料を持って出掛けるのが普通でしょう。けれど、人にやるのもくやしいからみんな隠しているわけです。ところが群衆は、イエスの弟子のほうから先に、ほんの少しにせよ実際にパンを分けてもらったので、われもわれもと自分のパンを出した。そこで、あなたどうぞ、僕のもどうぞ、私のも召し上がってください、ということになる。そうすると、五千人がすべて食べて残りが出ても、少しも不思議はないのです。」
人には、それぞれの捉え方、信じ方があります。
私が、何か注文をつけるつもりは毛頭ありません。
このような捉え方をする人もいるんだという情報を提供したかっただけです。
イエスは、子どものように信じなさいと繰り返し教えられました。
私は、イエスの教え、イエスの奇蹟を、子どものように丸ごと信じます。
また、イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」と教えられました。
クリスチャンとして未熟な私が、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、神を愛する」には、どのようにすれば全うすることができるか考えました。
私の愛し方が正しいのかどうか分かりません。
もちろん、愛し方に正しいとか間違っているなどはないでしょう。
愛するためには、愛する対象の神とイエスを知らなければなりません。
真の神の存在とイエスの存在を教えてくれたものは聖書です。
つまり、愛する対象の神とイエスを知るには聖書を知ることです。
愛するためには、愛する対象を信頼しなければなりません。
信頼するとは、疑わないことでしょう。
疑いながら、信頼することは、できない相談です。
私以外の人の思考回路を知ることは出来ません。
私の思考回路では、聖書のこの箇所は信じられるが、あの箇所は信じられない、しかし、神とイエスを信頼する、などの芸当はできません。
聖書を丸ごと信じることでしか、私は神とイエスを信頼するはできないのです。
私自身に命じていることですが、「ゴチャゴチャ言わずに、中途半端に信じるな、丸ごと信じ尽くせ。」と言うことです。
「そうすれば、自ずと結果は出る。要するに神が見ていて下さる」と私自身に言い聞かせています。
ところで、事故に遭遇して、足の親指が付け根から切断されたのに、数か月後に再生していたら、どうでしょう、奇蹟でしょうか?
突然、バカな問い掛けをして済みません。
バカついでに、もう一つバカな問い掛けをします。
事故に遭遇した犬のシッポが付け根から切断されたのに、数か月後に再生していたら、どうでしょう、奇蹟でしょうか?
この2つのバカな問い掛けと似たようなことが現実に起こっています。
中学生の頃、昼休みに運動場でサッカーをしているときに、ボールを蹴らずに地面を蹴ってしまったことがあります。
これは仮定の話ではなく事実です。
足の親指の爪の下全体に血豆ができ、数日後、爪がグラグラして根元からポロッと抜け落ちてしまいました。
生まれて初めての経験だったので、親指の爪とは永久におさらばと思っていました。
しかし、何日後かは昔のことでよく思い出せませんが、復活したのです。
永久におさらばと思っていた親指の爪が、復活したのです。
これは、当たり前ですか。
エル・シャダイ(全能の神)を信じた私は、誰が何と言おうと断言します。
神の御業である、神の奇蹟を目の当たりにしたと宣言します。
幼い頃、縁側の下でトカゲをよく見かけました。
捕まえようと触ると、シッポが切れて逃げて行くのを何度も見ました。
もう、私が何を言わんとしているか分かりますね。
ネットで確認すると、トカゲのシッポが切れても、1箇月程で復活するようです。
犬のシッポは、切れても復活しないのは、創造主の神が復活するようにしなかっただけのことです。
神は、私たちが目にするいたるところで、人間に見る目があれば、ご自分の御業が見えるように自然界のすべてに痕跡を残しておられます。
イエスを信じた者が、死後に復活し、神の御国に入ることができることを、自然界に神が残された復活の痕跡を目の当たりにする経験によって、私は信じることができます。
何度かブログで書いてきました。
擦り傷がいつの間にか治っていることは、神の御業、奇蹟です。
足の爪先から頭のてっぺんまで、体の隅から隅まで、要するに体全体が奇蹟の塊だと思っています。
自然界に毎日奇蹟を目の当たりにしている私にとって、5個のパンと2匹の魚を5000人に与えた奇蹟などは不思議でもなんでもありません。
新約聖書・マタイによる福音書12:38~39にあるように、イエスはパリサイ人に言われました。
新たなしるし(奇蹟)は、私には必要ありません。
ある宗教書を読むと、その著者は、神の声を聞いたとか、神が夢の中に出てきて啓示を受けたと書いています。
また、テレビ番組で、そのようなことをいう人が出て来たりします。
真偽は別にして、今の私には、どうでもいいことであり、興味のないことです。
ほとんどは、自己の利益を図るために、人を欺き、自分自身を欺き、真の神を欺き、真の神の栄光を汚しているのです。
真の神の声が、私自身に語りかけてくれば、もちろん、どうでもいいことではありません。
しかし、今、この瞬間、私自身を含めた自然界(被造物)に神が残された痕跡(奇蹟)だけで、私は充分満足です。
人形の髪が伸びたとか、人形が涙を流したのを見たとか言って、それを神の奇蹟だとして、その人形を祀り拝む人たちもいるようです。
たとえ、私の目の前で、実際に人形の髪が徐々に伸びたり、目から涙を流してても、その事実を認めたとしても、神の奇蹟とは絶対に認めません。
なぜなら、真の神は、絶対にそんな馬鹿げたチャチなことで、ご自分の栄光を汚すようなことはなさらないからです。
聖書の中に記されている神とイエスが示された様々な奇蹟(しるし)は、神の栄光を現すものです。
人形の目から涙が流れる、マリア像の目から涙が流れるなどは、神の奇蹟では絶対ありません。
それを神の奇蹟として信じることは神の栄光を汚すことです。
サタンが人間を惑わす行為なのです。
本日も長い文章になってしまいました。
最後まで、私の独り言を読んでいただきありがとうございます。
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
丸ごと
20代後半に、ある出来事をキッカケに苦悩し、その苦悩から抜け出る道を求めてキリスト教に関心を示したことがあります。
いきなり、聖書というわけではなく、キリスト教を信じている人はキリスト教のどのようなところに惹かれ信じているのかを知りたくて、ファンでもある遠藤周作の本を買って読んでみたのです。
昨年、アメリカのマーティン・スコセッシ監督による「沈黙-サイレンス-」が公開されましたが、その「沈黙」を含め遠藤周作のキリスト教関連本は、当時、すべて読んだのではないでしょうか。
昨日引用した「イエスの生涯」の別の2箇所を引用します。
<一つ目>
「聖書のなかにはあまたイエスと見棄てられたこれらの人間との物語が出てくる。形式は二つあって、一つはイエスが彼等の病気を奇蹟によって治されたという所謂『奇蹟物語』であり、奇蹟を行うというよりは彼等のみじめな苦しみを分ちあわれた『慰めの物語』である。だが聖書のこの二種類の話のうち、『慰めの物語』のほうが『奇蹟物語』よりはるかにリアリティを持っているのはなぜだろう。『奇蹟物語』よりも『慰めの物語』のほうがはるかにイエスの姿が生き生きと描かれ、その状況が眼に見えるようなのはなぜだろう。」
30年以上前のことですから、ここを読んだ当時のことを明確に覚えていたわけではもちろんありません。
恐らく、反発を持つことはなく、そういうものかと何となく納得したのでしょう。
<二つ目>
「『慰めの物語』が『奇蹟物語』よりリアリティをもって我々に迫るのは、『奇蹟物語』がガリラヤ地方に残っていたイエス伝説を集めて書かれているのにたいし、前者はおそらく目撃者の弟子の記憶に生々しくあったものをそのまま使っているためではないだろうか。」
この箇所も、当時どのように私が感じたか明確に覚えていたわけではありませんが、遠藤周作はイエスの奇蹟が伝説であって、事実あったこととして信じていないんだと当然読み取ったわけです。
そして、遠藤周作以外のクリスチャンを知らない当時の私は、クリスチャン全部がこのように奇蹟を伝説として捉えているんだと、明確な記憶ではありませんが、思い込んだのです。
今、ここを読み直してみると、おかしな点を発見します。
聖書の『奇蹟物語』を伝説だとして聖書の記事をそのまま事実として受け取らない一方、『慰めの物語』の方は「目撃者の弟子の記憶に生々しくあったものをそのまま使っているため」と書いている論理です。
何故、遠藤周作は『奇蹟物語』も「目撃者の弟子の記憶に生々しくあったもの」つまり事実として受け取らなかったのでしょうか。
続いて、「イエスの生涯」の次の作品として書かれた「キリストの誕生」の一部を引用します。
「・・・・・以上が私の『イエスの生涯』の縦糸だが、この本が一部のキリスト教信者の顰蹙(ひんしゅく)をかい、批判をうけたのは、私がイエスの現世的な人間像を『無力な人』として書いたためである。そしてまた聖書に語られているイエスの奇蹟物語を彼の愛の行為や復活の意味よりは重視しなかったためであろう。だが私のこの考えは今日も変っておらぬ。イエスは大衆の地上的メシヤとしての期待を裏切ったから、彼等の眼には無力な存在に映ったのである。」
結局20代後半の当時の私は、遠藤周作の本からは、真の神を見いだすことが出来ず、イエスが救い主キリストであることを発見することも出来ませんでした。
ハッキリ言って、遠藤周作が聖書の何を信じているのか、イエスの何を信じているのか、神そのものを本当に信じているのかが、彼の一連のキリスト関連本からは読み取ることができなかったのです。
これが神だ、このイエスが救い主キリストだ、だから私(遠藤)は信じているという強いメッセージがなく私の心に訴えて来なかったのです。
したがって、聖書自体を読む意欲がわくことも当然ありませんでした。
遠藤周作の本から、私が、神とキリストを感じることができなかった原因が何か、今はハッキリわかります。
遠藤周作の本だけではありません、一般書店で売られているキリスト教関連本(マザーテレサの本など)ではキリスト教の愛ばかりが強調され、私たち人間が天地万物の創造主の神から創造された被造物の人間であるということが、明確に主張されていないのです。
次に、イエス・キリストの示された愛(遠藤周作のいう「慰めの物語」)は、キリスト教の重要な要素ですが、イエスが行った「奇蹟」は同等ないし同等以上のものであると今の私は考えています。
イエスが行った「奇蹟」を事実として、明確に認識する必要があると考えます。
下記の私がイエスに会えたと仮定しての小話をご覧ください。
「イエス様、山上の垂訓のお話しをされたのは事実ですか?」と私が問うと、イエスは「そうだよ」とやさしく答えてくれました。
次に「イエス様、湖の上を歩かれたのは本当ですか。ラザロを復活させたのは本当ですか?」と私が聞くと、イエスは「湖を歩いたなんて誰が言ったんだ。そんなことできるわけないだろう。この私が死んだラザロを復活させたって、冗談はよせ。」と答えられました。
このように聖書に書かれていたら、イエスが行った奇蹟を作り話、デッチ上げと批判する人たちは納得するのでしょうか。
聖書に書かれているイエスの病人や盲人の癒しをイエスの力や神の力ではなくて、ある「特効薬」を飲ますことによって癒したと書いていたら聖書を信じるのでしょうか。
「特効薬」を飲ますことによって癒したなどと聖書に書いていたら、それは人間の業であって、聖書を神の書と誰も認めず、誰も読むこともなく捨てられるたことでしょう。
奇蹟がないとしたら、苦難に喘ぐ私たち人間をどのように救うというのでしょうか。
もはや、イエスは、救い主キリスト・メシアでもなんでもなく、人格が高潔であるが、私たち人間と同じただの人間ということになります。
「奇蹟」は、聖書が神の書であることの最重要の要素です。
奇蹟以外の聖書箇所の中で、人間的知恵では判断のつかない箇所もないではありませんが、浅はかな人間の知恵を遥かに凌駕する神とイエスを信頼して、聖書の記事を私は「丸ごと」受け入れます。
「丸ごと」信じます。
9月9日(土)のブログ「理性的、合理的」でJ・I・パッカーの著作を引用したように、盲目的ではなく、「理性的に丸ごと」信じます。
私が信じる聖書に掲示された神は、商売繁盛の神、交通安全の神などそんじょそこら辺にいる神ではありません。
私の信じている神は「命の源である天地万物の創造主」である「全知全能の神」なのです。
<ことわり>
遠藤周作という作家は、中学校までは教科書以外の本をほとんど読まなかった私が、高校生になって本好きになるキッカケ(狐狸庵先生シリーズ)をくれた大切な作家です。
今でも大ファンです。
本日も長い文章になってしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
矛盾、批判(パートⅡ)
<前回からの続き>
昨日とは異なるテーマのブログをアップする予定でしたが、今から取り上げるテーマも前回テーマ「矛盾、批判」と類似するので、パートⅡということでアップすることにしました。
本題に入る前に、星周作という私のH・N(ハンドル・ネーム)について説明します。
私は、聖書研究のためにキリスト教関連書籍を毎日読んでいますが、そもそも時代小説と海外ミステリーが好きなので、現在は、山本周五郎や藤沢周平のほか、北欧ミステリーを聖書研究の合間に読んでいます。
高校時代は遠藤周作の狐狸庵先生シリーズが好きで、このシリーズをキッカケに遠藤周作ファンになりました。
ということで、ファンである山本周五郎・藤沢周一・遠藤周作の3人の「周」を取ってH・Nとしたものです。
本日は、カトリックのクリスチャンであった遠藤周作のイエス・キリストをテーマにした本の一部を取り上げます。
これから書くことは、H・Nにする程のファンである遠藤周作を批判するものではないことを、ご理解ください。
「イエスの生涯」の一部を引用します。
「周知のように我々が手にしている聖書は、必ずしもイエスの生涯を事実通りに追っているわけではない。カトリック側もプロテスタント側もこのことを等しく認めている。たとえばマタイ、マルコ、ルカの共観福音書とヨハネ福音書とを読み比べるならば、同じイエスの行動でもその時間的配置に食いちがう点が幾つかある筈である。(たとえばエルサレム神殿におけるイエスの宮きよめの出来事は、先にものべたようにヨハネはイエスの初期時代のものとして語っているのに、共観福音書はこれを死の直前と考えている)その食いちがいについてはそれぞれの学者にそれぞれの説があるが、いずれも確たる裏づけがあるわけではない。したがって、そうした食いちがいの部分をイエスの生涯のどこに置くかは、聖書を読む者の捉えたイエス像によって決まるのである。」
当時のエルサレム神殿では、捧げ物をする際のキズのない羊や子牛、鳩などを高価で売っていたり、その捧げ物を購入するための外国貨幣の両替をしていました。
そして、神殿管理者(大祭司)は、その商売人たちから場所代を徴収し不正な蓄財もしていました。
イエスは、宮(神殿)を商売の場所にしていることに憤慨したのです。
これが、いわゆるイエスの「宮きよめ」です。
そこで、上記の遠藤周作の記述において、「宮きよめ」が4福音書のうちヨハネではイエスの活動の初期に行われているのに、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書では、イエスの活動の終盤に行われているから、時期がズレているのはおかしい、矛盾しているのではないかと、遠藤周作だけでなく、多くの学者が主張しているというのです。
「宮きよめ」の時期はズレているのでしょうか。
矛盾しているのでしょうか。
長くなりますが、4福音書を比較してみましょう。
内容的には、4福音書ともほほ同じですね。
ただ、赤文字の箇所の文章内容がヨハネと他の3人では違いますね。
ここで、もう一つの情報です。
つまり、イエスの活動の初期です。
マタイ福音書は全28章あり、宮きよめは21章で登場します。
マルコ福音書は全16章あり、宮きよめは11章で登場します。
ルカ福音書は全24章あり、宮きよめは19章で登場します。
結論は、極めて単純です。
「宮きよめ」は、イエスの活動の初期と終盤の2回行われていたのです。
「宮きよめ」がイエスの活動中、1回しか行われていなかったと聖書を読み取った単純な解釈ミスです。
4福音書の「宮きよめ」の前後の記事をみれば明らかです(長くなるので、引用しません。各自で確認してください。)
要するに、イエスの活動の初期に「宮きよめ」をしたにもかかわらず、商売人たちは、その後も懲りずに続けていて、イエスの活動の終盤に再度「宮きよめ」が行われたというだけの話です。
公的な権威がないイエスから憤慨されたくらいで、生活もかかっている、したたかな商売人が止めるわけがないのです。
以上が、イエスの「宮きよめ」の真相だと、私は解釈しています。
これは、私の独自解釈などではなく、聖書を真実の書であると信頼し、聖書を字義通り解釈しているクリスチャン神学者や牧師にとっては、疑問の余地のないものです。
聖書を最初から疑っている人にとって、ほんの些細なことも矛盾に感じたり、デッチ上げだと批判することになるようです。
聖書を信頼し真実の書であるという前提に立てば、一見矛盾だと見えるものでも、聖書全体を詳細に検討し、他の文献を調べることによって、ジグソーパズルのピースが収まるところにピッタリと収まるように、聖書が何の矛盾もなく調和している書であるとわかるはずです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
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〈私の信条〉
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★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
矛盾、批判(パートⅠ)
本日のブログは次回アップする予定でした。
ただ、一日でも早く、皆さんに伝えたい重要な情報だと思い直し、本日アップすることにしました。
クリスチャンになって数年、ないし、数十年になる方も意外と知らない情報かも知れません。
手前味噌ですが、キリスト教に興味を持ち始めた人には、極めて重要な情報だと思っています。
本日のブログは本当に長くなりますが、ご辛抱ください。
まず、2冊の本の一部をそれぞれ引用します。
<キリスト教の本(上)>
「新約聖書の福音書は全部で『マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ』の4つであり、巻頭から順に3書は『共観福音書』と呼ばれている。3書は物語の各所において、極めて類似したプロットを共有し、共通の資料をもとに書かれたと推測されるからである。共通の資料とは、一番古くに書かれた『マルコ福音書』である。『マルコ福音書』が物語の骨子となり、マタイ、ルカの福音書に用いられているのである。次の資料は、マタイとルカの福音書に用いられたと推測されるイエス語録集である。」
下の写真の本「聖書の起源」から引用した一文をご覧ください。
「こうしたマルコ福音書の特徴に加えて、そもそもマルコ資料が、福音書の中で、最古の伝承資料であるという事実のゆえに、ナザレのイエスの生涯は、もっぱらマルコ福音書を基礎にして記述されてきた。」
赤文字で示したように、上記2冊の著者は、最も古いマルコ福音書を参考にマタイとルカの福音書が書かれていると言っています。
2人の著者は、マタイとルカの福音書の著者はイエスを目撃した者でも独自取材もしていない者であって、マルコの記事を丸ごとコピーとは言わないが、それに近いものだと言っているようです。
この2人の著者の主張は正しいのでしょうか。
問題の3福音書を検討したいと思います。
そこで、3福音書が取り上げている複数ある共通場面の内、ある一つの場面の新約聖書の聖句を引用します。
ピンクの蛍光ペンの箇所に注目してください。
3福音書を比較して、皆さんはどう感じられましたか。
矛盾を感じましたか。
マルコとマタイは「エリコを出た」と書いているのに対し、ルカは「エリコに近づかれた」と書いています。
実は、エリコという町は、イエスが活動していた当時は2ヶ所あったのです。
そして、現在のエリコを合わせると3ヶ所ということになります。
そんなバカな、と思われるでしょう。
教文館刊「聖書大事典」に次のような説明があります。
「旧約聖書の時代あるいはそれ以前の時代には、今日のエリコの町より北西2.5kmのテル・エッスルターンに位置していた。(新約聖書の時代の)ヘロデ大王が新たに築いたエリコは、トゥルール・アブー・エルアラーイクのそばを流れる、ワディ・ケルトの両側にまたがっており、今日のエリコの西1.5kmの所にある。」
次の地図をご覧ください。
3ヶ所のエリコがわかりますか。
左下の赤丸の箇所がエルサレムです。
きょう取り上げた聖書記事では、イエスが十字架にかけられることになるエルサレムを目指していました。
イエス一行は旧約聖書時代にできたエリコを出て、新約聖書時代にできたエリコに近づいていたのです。
それから、この新約聖書時代のエリコから目的地エルサレムに向かっていくのです。
つまり、マルコとマタイは旧約聖書時代のエリコを出ていく視点で書いているのに対して、ルカは新約聖書時代のエリコに近づいていく視点で書いているのです。
マルコとマタイは「エリコを出た」と書いているのに、ルカは「エリコに近づかれた」と書いているじゃないか矛盾する、聖書は信じられない、と批判する人達がいます。
皆さんはどう捉えますか。
私は聖書は作り話でもなければ、その書かれた内容に矛盾などなく、事実を淡々とそのまま書いたものだと思います。
続いて、マルコの記事では「バルテマイという盲人」と書いているのに、マタイは「ふたりの盲人」と書いているじゃないか矛盾する、聖書は信じられない、と批判する人達がいます。
これは、単純です。
マタイが書いたように盲人は2人いたのです。
ただ、2人の盲人のうちバルテマイに注目してマルコが書いたというだけのことです。
最初に書いたように、マルコ福音書を基礎にマタイが福音書を書いたと主張するなら、マタイも「ふたりの盲人」などと書かずにマルコの書いた通り「バルテマイという盲人」と書くはずです。
以上です。
聖書の記事は矛盾していますか?
聖書の記事は作り話、デッチ上げですか?
私には、皆さんにこれを信じろ、などと言う権限は、もちろんありません。
私の今持っている情報を皆さんに提供するだけです。
もちろん、私は聖書に矛盾はなく真実の書だと確信しています。
最後まで、ご覧いただきありがとうございます。
下記の「聖書の矛盾?聖書は作り話?」を未読の方は、こちらもご覧ください。
タイトルまたは画像をクリックしてください。
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ご理解ください。
当ブログでは、皆さんのコメントを書き込めないようにしています。
様々なコメントをいただくことによって交流するのも悪くはないのでしょうが、特定のコメントを気にして、私の本心を語らなくなってしまうことを恐れます。
読者の皆さんに媚びを売るようなブログにしたくない、受けを狙うことが優先されて本心と異なったブログをアップしたくない、という思いがあります。
高名な神学者や読者のみなさんが知っている牧師のメッセージとは異なる聖書理解もあるかもしれません。
私が得た知識を誇るつもりは毛頭ありません。
実際、私のしていることは、聖書の聖句や神学者、牧師の本を引用しているに過ぎないのです。
神を畏れる私としては、聖書の記事から逸脱したメッセージを語ることは極力避けたいと考えています。
神を畏れながら、神がOKを出してくれていると信じて、私が聖書研究をする過程の今のこの時点で理解し信じたことを書き続けます。
愛の実践にはなはだ欠けるお前に聖書を語る資格などないとおっしゃる方がいるかもしれません。
もし、成長したクリスチャンであって誰もが認めるパーフェクトな聖書理解をした者でなければ伝道などするべきでないとすれば、クリスチャンの誰が伝道できると言えるのでしょうか。
神は未熟なクリスチャンが未熟ながら伝道する過程で徐々に成長していくことを見守ってくださると信じます。
難解な聖句について調べる際、文献の著者の解釈では納得できない時に、そもそも聖書記者の言わんとすることを探し求めた結果、自分の解釈の結論を出すことがあります。
そういう時は、必ず、次のように祈ります。
「主なる神様、この聖句は○○と解釈しました。よろしいでしょうか。もし、間違った解釈であればご指摘ください」と。
いつの日か神と交流できる日に「お前の解釈した聖書のあの箇所は、実はこういうことなのだよ」と神が明らかにされる日を信じます。
60歳のオヤジの稚拙な文章ですが、こんなブログでも興味を感じる方は、今後もよろしくお願いします。
すみません、きょうは聖書について触れません。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
理性的、合理的
4人のクリスチャンの著書を引用します。
少し長くなりますが、ご辛抱ください。
「『あなたは、ほんとに奇蹟を信じているんですか。』私は、たちまち窮してしまう。信じていると言えば、原子力時代の現代にそんな馬鹿げたおとぎ話を信じているなんて、何という情けないやつなのだろうと軽蔑されることは必定だし、信じていないと言えば、クリスチャンのくせに何というずうずうしいやつなんだろうとこれまた軽蔑されることは必定であるからだ。つまり私は、どっち道だめなのである。」
富田正樹(生1965年~、牧師)
「イエスが生まれた当時のギリシア・ローマの世界では、『偉大な人物は処女から生まれる』あるいは『女性が神の力によって妊娠する』ということを信じる人は多く、・・・<中略>・・・ですから、イエスが処女から生まれたという話も、おそらくイエスの死後、謎であった幼年時代を想像して、人びとが書き加えた伝説でしょう。」
内村鑑三(生1861年~没1930年)
古い言い回しの文章で若干読みづらいですが、そのまま引用します。
「私が復活を信じまするは私が神の大能(神の力)を信ずるからであります。宇宙とその中にあるすべての物を造り、また人を造り、人の内に宿る霊魂を造った神は、容易に死者を甦へらすことができると信ずるからでございます。・・・<一部省略>・・・使途パウロは申しました、「神すでに死にし者を甦へらせ給へりといふとも汝何ぞ信じ難しとするか」。すなはちパウロの意は、もし人が甦へらせたりといふならば信じないが、大能の神が甦へらしたといふならば決して信じ難い事ではないといふのでございます」
J・I・パッカー(生1926年~、牧師・神学者)
「奇蹟的な事柄に対する信仰は、キリスト教にとって不可欠なものである。すべての奇蹟を捨て去るような神学者は、聖書における二大奇蹟であるイエスの受肉と復活を否定しているのであり、もはや自分自身がキリスト者であると主張すべきではない。彼らがキリスト者であると主張しても、それは無効である。昨今の科学者たちによる奇蹟の拒絶は、科学自体から出てきているものではなく、科学者たちが自分たちの科学的研究に持ち込んだ絶対的に均一な宇宙という独断的な主張から出てきたものだ。世界を造った神が今なおご自分が造った世界に創造的に介入することができると信じることに、何ら非合理なものはない。キリスト者が認識しなければならないことは、理性に反することは、聖書に記録された奇蹟を信じることや、神がそう望むなら今日も神は奇蹟を行う力があるということを信じることではなく、むしろこれらの奇蹟を疑うことである、ということだ。」
パッカーは、奇蹟を信じることの方が、理性的であり合理的であると主張しているのです。
イエスの処女マリアからの誕生は、伝説などではなく、歴史的事実と信じます。
私は、もちろん、内村鑑三とパッカーの主張を支持する者です。
↓ ↓ 聖書の他の重要なテーマについては、こちらをご覧ください。
https://bible-seisho.jimdo.com/
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。
布石を打つ
今日のブログでは、私が個人的に理解している聖書の全体像を語りたいと思います。
内村鑑三、矢内原忠雄、D・L・ムーデー、アンドリュー・マーレーなどの高名なクリスチャンの言葉を引用したものではありません。
私の個人的な聖書感であることを予めご了承ください。
聖書の中でも極めて重要な箇所について触れます。
少々長くなりますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
まず、旧約聖書・創世記12:1~4をご覧ください。
つづいて、旧約聖書・創世記17:1~8
しかし、神がユダヤ人を選んだというより、アブラハム個人の神に対する忠実な歩みを神がご覧になって、アブラハムを祝福したのです。
その結果として、アブラハムから出る子孫のユダヤ人も神は祝福するようになったということが私の理解です。
旧約聖書を字義通り正しく読めば、このことは単純に理解できるはずです。
さらに「あなた(アブラハム)を祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と書かれているように、聖書はユダヤ人だけのために書かれた書物ではありません。
人類全体のメッセージとして書かれています。
聖書がユダヤ人の神話、作り話なら、ユダヤ人だけが神の国に入れるというストーリーでいいはずです。
ユダヤ人が虫けらのようにさげすむ異邦人(ユダヤ人以外)を救いの対象に入れるのは不合理でしょう。
同じようにユダヤ人が離散(ディアスポラ)することとなるバビロン捕囚などを、わざわざ、聖書に記す必要もありません。
アブラハム自身が、そもそも神に全く求めもしなかったカナンの地を神が与えるとする約束は、聖書研究初心者の頃の私にとって謎でした。
聖書研究が進むにつれ、除々に次のことが解ってきました。
アブラハムが住んだことも見たこともないカナンの地を神が与えると約束されたことは、神のご計画が将来成就するための布石だったのです。
カナンの地は、住んだことも見たこともない神の御国をイエスを信じたユダヤ人及び異邦人を含む人類全体に、神が定めた時に与えるとする神のご計画の象徴、布石なのです。
次の説明に入る前に新約聖書エペソ人への手紙第一1:4~5をご覧ください。
この聖句に書かれているように、世界の基の置かれる前(天地創造の前)から、神のご計画では、ユダヤ人を通してイエスを信じる人類を救うことが神のご計画なのです。
何も、私の独自の解釈でも何でもなく、旧約聖書の最初のページの創世記から新約聖書の終わりのページの黙示録までを先入観を持つことなく字義通り素直に読めば理解できることです。
したがって、アブラハムが見たこともない未知のカナンの地を、神を信頼して目指したように、私たちもまだ見ぬ未知の神の御国を、イエスを信じ、父なる神を無条件に信頼し、神が定めるその時を確信して待つべきです。
ノアは、ノアとその家族以外の誰も信じることがなかった見たことがない、地球上のすべての生きとし生けるものが滅ぼされる大洪水が起きるとする神のことばを信頼し、箱舟を造りました。
モーセも神の力を信頼し、見たことがない海が裂ける奇跡を真の当たりにすることができました。
私も見ることができない神を信じます、
私は見たこともない神の御国を信じます。
最初に引用した旧約聖書・創世記12:1~4と、次に引用する新約聖書・ヘブル人への手紙6:13~17を見比べてください。
神のご計画は不変です。
聖書に矛盾はありません。
神のご計画は着実に一歩一歩(神の時間で)進んでいます。
<注目>
聖書を全篇どころか僅かでも読んだことがないクリスチャンではない方にとっては、何をバカな絵空事を書いているのだと思われるでしょう。
将来いつの日か聖書を真剣に読んでみようと思われる時が来たら、ぜひ、今日のこのブログを思い出してください。
あなたの聖書研究が進めば、きっと納得してくれるはずです。
一般書店で売られている「聖書入門」とタイトルがついている本には、まず、上記のことは書かれていません。
あえて言えば二つの理由があると考えます。
一つ目は、万物の創造主である神の存在を認めていない、要するにキリスト教徒ではない学者などが、神の書としてではなく、聖書をただの古文書の一つとして紹介しているに過ぎないからです。
ですから、奇蹟はすべて神話またはでっち上げの類いとしか見ていません。
これから、聖書を学んでみようと考えておられる方は、書店で購入する聖書関連の本の巻末の著者のプロフィールをまず見て、キリスト教徒の方(牧師など)かどうか確認してから購入することをお勧めします。
二つ目は、著者自身が旧約聖書と新約聖書を起承転結のある、一つの書物として捉えていない可能性があります。
皆さんも気が付かれると思いますが、書店に並んでいる聖書関連の本のほとんどが、新約聖書のイエスの「愛」をことさら強調している本ばかりです。
仮に旧約聖書のことも書いている本があっても創世記などは、あたりさわりのない程度でしか触れていません。
著者自身が旧約聖書の創世記自体を神話程度にしか考えていないからです。
一番重要な聖書の本質について書いていない本が多く並んでいるのが一般書店です。
一般書店で一番目につくのは、愛の伝道者マザーテレサの本ではないでしょうか。
愛の実践のはなはだ足りない(猛省)私にとって尊敬するお方です。
今でも毎日欠かさず彼女の本を読んでいます。
キリスト教に興味を持ち始めた多くの人が手にする本が彼女の本だと想像します。
私自身もそうでしたが「キリスト教イコール愛」と理解して、聖書本体を読まずに、とりわけ旧約聖書を読まずに、キリスト教のすべてを知ったつもりになる人が多いのではないかと危惧します。
要するに、イエス・キリストばかりが語られ、命の源である天地万物の創造主である神が抜け落ちている本が多すぎる気がします。
聖書を全く覗いたことがない、その昔、マスコミのある記者が「私はイエス・キリストを信じることができないのですが?」とマザーテレサに聞いたとき、彼女が次のように語っていたことを思い出します。
「わたしが信じているから大丈夫」と答えたのです。
私は、へえ~そんなもんでいいんだ、と長らく思っていました。
今の私は自信を持って言います。
私たち各々が各人の責任において、創造主の神及びイエス・キリスト並びに聖霊を「信じて受け入れるのか、又は、受け入れることができないのか」の選択をする必要があります。
私たち各人の永遠の命がかかっています。
「聖霊」については、いずれ必ず、当ブログでアップします。
最後までお読みいただき感謝します。
これからも宜しくお願いします。
★私は、聖書に書かれている内容を、誰が読んでも明らかに比喩的な言葉を除き、字義通り理解した上で信じています。したがって、創造主である唯一の神の存在を確信し、イエスをキリスト(救い主)と認める者です。しかし、カトリック教会等のいずれの教会にも属していない無教会者です。あらゆる新興宗教のいずれの信者でもありません★
・創造主だけが神
・万物・人間を創造せずして神たる資格なし
・商売繁盛の神、龍神など「〇〇神」と「神」の文字をくっつけても、万物を創造せずして神たる資格なし
・釈迦が万物を創造した方なら、釈迦を神と崇めますが、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
・親鸞、日蓮など、人格が高潔であり尊敬できる方であっても、万物・人間を創造せずして拝む対象に非ず。
〈私の信条〉
盲目的ではなく根拠に基づき理性的に、キリスト・イエスを信じ尽くし、聖書を信じ尽くします。
★星周作(HN)本名:馬場忠博:馬場聖書研究室★
<私は聖書の神を信頼する>
私は、命の源である天地万物の創造主である神が愛をもって私たち人間を創造してくださったと確信しています。愛である神が、天災、戦争、病などの苦難の多い人生で人間の一生を死によってすべて終わらせてしまうとは、私には考えられません。聖書に書かれている通り、神、キリスト・イエスを信じる者たちが、死後復活して神の御国において祝福の中で永遠の命を生きていくことを信じています。そのようにしてくださる神を信頼して、聖書の学びを継続します。